座右の銘 田中角栄の言葉(抜粋)

【要件は便箋1枚に大きな字で書け。初めに結論を言え。理由は3つまでだ。この世に3つで、まとめきれないことはない。】

田中角栄のニックネームは「分かったの角さん」。長々と話をされるのを嫌ったため、秘書や側近議員らは、要点を端的に伝えることを常々心がけていたといいます。

 

【必要なのは学歴ではなく学問だよ。学歴は過去の栄光。学問は現在に生きている】

尋常小学校しか出ていない角栄には学歴は無かった。「学問」とは志を持った者が何時でも学べる「生きるための知恵」だ。人間にとって本当に必要なものは高学歴ではないことを、初めて体現した政治家だった。

 

【失敗はいやというほどしたほうがいい。そうするとバカでないかぎり骨身に沁みる。判断力、分別ができてくる。これが成長だ。】

「今太閤」と呼ばれ、権力の栄華を極めたかにみえる角栄だが、その人生は苦労と挫折の連続であった。

 

【人の悪口は言わない方がいい。言いたければ便所で一人で言え。自分がいわれたときは気にするな。】

一国の宰相として人を動かし、自分の目指す政治を実現するために、角栄が重んじていたこと。それは「味方を増やす」ことではなく「敵をつくらない」ことだった。

 

【暗記教育は古く、くだらないと言う人がいるが、暗記は教育の中で一番大切なことの一つだと私は信じている】

角栄は尋常小学校時代の師、草間道ノ輔が語っていた次の言葉をよく人に説いた。「人間の脳とは数多いモーターの集まりである。普通の人間はその中の10個か15個のモーターを回していけば生きていける。しかしこの脳中のモーターは努力しさえすれば何百個も何千個も動かすことが可能だ。それには勉強し、数多く暗記することである」

 

【嘘を吐くな。すぐバレル。気の利いたことを言おうとするな。後が続かない。お百姓さんを侮って小馬鹿にするな。しっぺ返しされる】

小手先のテクニックで自分を大きくみせることはできない。仕事を進める上で必要なことは、背伸びをせず、相手を見下さず、誠実に向き合うこと。当たり前のようで実践は難しい。理想とする心構えである。

 

【法律というのは実におもしろい生き物だ。一行、一句、一語が大変な意味を持っている。だが肝心なのは法律が生まれた背後のドラマだ。】

田中角栄の秀でた能力の一つは、物事の本質がどこにあるかを見抜く力だった。法律を覚えることも大事だが、なぜその法律が成立したのかを熟知しなければ真の理解には至らない。仕事もしかり。何のためにルールがあり、決め事があるのか。その歴史と背景を熟知した人間が初めてルールを使いこなすことができる。

 

【必ず返事は返せ。たとえ結果が相手の思い通りでなっかたとしても「聞いてくれたんだ」となる。これは大切なことなんだ。】

ひとから頼まれたことをされた際には必ず結果を伝える。それが信頼関係の第一歩となる。小さな信頼の積み重ねが大きな人脈となり、自分を助けてくれる。期待に応えられないことによって後ろめたさを感じる必要はない。悪評を恐れ、何もしないことが最悪の対応であり、それはどんな仕事の場面にもあてはまる。返事は人間関係の基本であると信じていたのである。

 

【人生で重要なのは間だ。イノシシのように一本調子なのはうまくいかない。よく人間を観察しなければいならない。】

 

【世の中は白と黒ばかりではない。敵と味方ばかりでもない。その間にある中間地帯、グレーゾーンが一番広い。心理は常に中間にある。】

角栄は自分と対立する人間の考えをよく聞き、ときにはそうした人間に理解と協力を求めることがあった。トップにたつ人間は、一番広い「白と黒の中間地帯」に思いをめぐらせる必要があるとの考えからである。ものごとは単純な二元論で片づけることはできない。ひいては人の心も相反する2つの気持ちが混在している。そのことを忘れてはならないという至言である。

 

【祝い事には遅れてもいい。ただし葬儀には真っ先に駆けつけろ。本当に人が悲しんでいるときに寄り添ってやることが大事だ。】

田中角栄はどんな政敵の葬儀にも真っ先に駆け、涙を流してその死を悼んだ。葬儀から一週間が経過したとき、改めて新しい花を届けさせた。「最初の花が枯れるころだ。遺族も悲しみが募る」人が悲しんでいるとき、本当に悲しみを共有できるか。田中角栄は偽りのない感情を人に伝えることで、多くの人の記憶に残る政治家となった。 私見的には流石に政治家であると感心するのですがなかなかこのようなことは一般人にできることではないことでしょう。祝い事よりも葬式の出席を優先させることは、家族(遺族)にとって「来てくれた」との記憶は重いことなのかもしれません。

 

【人の一生はやはり運だと思う。実力があっても駄目なものは駄目。努力と根気、勉強、こういったものが運をとらえるきっかけになる。】

田中角栄は総理という職責を問われたとき「一国の宰相になろうと思ってもなれるものじゃない。天が命じなければなれるものじゃないんだ」と常々いっている。本質的には、人間の万能性を否定する運命論者でありながら、その「運命をつかむ」ための自助努力を欠かさない。それは大きな仕事を成し遂げてきた偉人たちに共通する姿勢とも言える。運をつかまえた政治家人生なのである。

 

【相手が立てなくなるまでやっつければ、敵方の遺恨は去らない。徹底的に論破してしまっては相手は救われない。土俵際には追い詰めるが、土俵の外に押し出す必要はない】

白黒つけることはときに心地よいものだが、政治の幅は狭まり、損をすることになる。相手を生かすことが自分を生かすことだと角栄は肝に銘じていた。

 

【眠ることは死ぬことだ。人間は毎日、死に、生きている。その心境が分かってから、全てが怖くなった。】

幸福に生きるという人間の原点の姿を追及し続けた角栄だったが、死について語った言葉は少ない。「眠り」を死にたとえたこの言葉は、いつまでも国民のために働き、政治活動を続けるという「生涯政治家宣言」だったのかもしれません。

 

【齢50になった。平均年齢70歳まで生きるとするなら、あと7300日。刻むが如き人生だ。その限られた時間の中で私は任を果たす。】

自民党幹事長に復帰した際、自分の「残り時間」を計算してみせた田中角栄。スタッフに対し「やり足りないで時間を費やした責任を問う。時間を有効に使うために、やり過ごした失敗は私が負うと」と語った。その後、総理大臣として「天下」を取った田中角栄は「金脈」報道とロッキード事件で「闇将軍」となり1985(昭和60)年、病に倒れた。

 

 

私は東京にいた20歳代に自営業の運送業を営んでいました。大学に入学したものの中退し、フリーターを経て自分でやりだしたのです。仲の良い先輩がよくこういっていました。

「頭の悪い奴は体を使う仕事をやるっきゃないだろう。」と言って、大型トラックの運ちゃんに転身し(トラック野郎の菅原文太みたいな男前で、体はボディービルで鍛えたマッチョマンでした)、あの当時、体一つで月額100万以上を稼ぎだしていました。それに感化された私は大型ではないものの小さな運送屋を立ち上げたのでした。私が感化された先輩は矢沢永吉の「成りあがり」が大好きで田中角栄を尊敬していました。 今でも矢沢永吉がTVCMに出てくると、「成りあがり」のあの曲と先輩を思い出します。

当時、私は運送の得意先のある道程で、目白の田中邸の前(目白通り)をよく通ったものです。ちょうどロッキード事件で騒がれていたとき、田中角栄を批判するために毎日のように、「自転車」でカネや太鼓を叩いてチンドン屋のように目白邸に押しかけていたオッチャンがいました(ロッキード事件前後までは門前に機動隊や警察官の護衛付でVIP扱い。それでもこの自転車のオッチャンは門前払いでも、めげていないのか何時も見かけたのを覚えているのです)。

そのときのことを角栄は次のように言っていたことを、この本を読んで知りました。

【カネや太鼓を叩いて家まで押しかけられたとき、一番ちっちゃい孫が「おじいちゃんあれなんなの」と聞くから「おじいちゃんの応援団だ」と答えた】と。。。。。

 

 

角栄のこの本を読んでから先輩を思い出し、矢沢永吉(成りあがり)のアルバムを探し出し聞いてみました。不勉強で何も知らなかったけれど、東京で成功することを夢見ていた、あの頃の懐かしい自分を思い出しました。