戦争を経験した昭和の名優達の死と父の死

平成26年11月10日、高倉健さんが83才で亡くなり、11月28日、菅原文太さんが81才で亡くなられました。 そして私の父は同年11月21日22時20分に間質性肺炎急性憎悪により84才でこの世を去りました。

皆、昭和一桁生まれで戦争を体験した世代です。任侠映画が好きな私は高倉健さんと菅原文太さんの映画を何回も見たものです。高倉健さんは任侠映画にばかりに出演することは好んでいなかったようで、後の「幸福の黄色いハンカチ」「八甲田山」「動乱」等、特に「冬の華」が好きでした。そして北海道を有名にしてくれた人でもありました。 文太さんは、「仁義なき戦い」に出演していたものの、義理と人情を重んじ、戦争体験者として、日本は絶対に戦争をしてはならないと訴えて、原発再起動反対論者としても有名でした。 当時、東京にいた私は「トラック野郎」の新作が出たら必ずその映画を見にいったものでした。

一方、私の父も昭和5年生まれで、13才の時に半ば強制的に、あの神風特攻隊である予科練習生として選ばれ、断ることもできないで死を決意し戦争へと邁進していきました。 しかし昭和20年8月15日の日本の無条件降伏により、その運命を変えられ、平成26年11月21日にその生涯を閉じました。

 

私が幼少の頃、父親と風呂に入るとき、いつもも軍隊式だと言って私の体をゴシゴシと拭くので痛くて、風呂に父親と一緒に入るのが嫌で嫌で仕方なかったのをよく覚えています。 昔、よく軍隊は連帯責任だから、友のやった悪さは全てが連帯してその罰を受けるんだと言っていたこともよく覚えています。

当時、標茶町に住んでいた、父の親である爺さんの葬式に出席した時、私が小学校2・3年生の頃だったと思います。 私と弟は葬儀場の近くの公園に父親に連れていかれて、ブランコに乗っていました。 正直、爺さんが死んだとき、あまり会ったことが無かった私には涙は出てきませんでした。 父親も葬儀中に涙を流さなかったので、私はこう聞いたのを覚えています。 「父さんはなぜ泣かないの?」と聞いてみました。 返ってきた親父の言葉を今でもはっきりと覚えています。

 

「父さんは親孝行をしてきたから泣かないんだ」

 

振り返ってみれば、そんな私は親不孝の連続でした。  私は高校時代、勉強もしないで母親の財布から現金をかすめ取りながら、大型バイク免許を隠れ取っていました。 観念した父親にバイクも買ってもらいました。 そのバイクでスピード違反はするわ、他校の生徒と喧嘩ばかりして、警察にやっかいになり母親を何回も校長室に呼ばせました。 ある日また喧嘩をして、顔を腫らして家に帰ったとき、ちょうど父親がいて「馬鹿者!」と怒鳴られて、またぞろ殴られたのを鮮烈に覚えています。 顔がボコボコに腫れて痛いのに、その上にまた殴られたのです。おふくろには幣舞橋の下で拾ってきた極道息子とよく言われていました。 反抗期には父親に向っていったこともたびたびありましたが、本気で向っていくことは当然ながらできるはずもなく、殴られていました。

 

かみさんから連絡が入ったのは、21日の午前11時半くらいだったと思います。 ケアマネの秋山さんから連絡が入って、お父さんが勤医協に入院したからと連絡がありました。 ケアマネの連絡は、常にかみさんが受けるようになっていました。

私に仕事があることを都合にして、仕事をしているかみさんに連絡が入り、かみさんが受けるようにしていたのです。

勤医協病院の入院病棟を尋ねると、親父の姿はなく間違いじゃないかと思い、再び確認すると外来処置室に親父は、酸素マスクをつけられ荒々しく苦しそうな呼吸をして横たわっていました。看護婦が点滴をしようと親父の血管を丁寧に探していましたが、荒々しい呼吸の親父の血管は、冷たく収縮していて、腕にも足にも点滴を受け入れる血管は残っていませんでした。 それでも熟練の看護婦は諦めることもせず、親父に四つん這いになりながら、腕を擦り温めながら丁寧に血管を探していました。 やっと見つけた血管も点滴に負けて漏れ落ちるのです。 一時間以上は探していたことでしょう。  鏡さん悪いね、痛いけど我慢してね、また刺すよと何十か所刺されたことでしょうか。 気丈にも親父は何回も「大丈夫だ」と言っていました。

その看護婦さんが懸命になって見つけてくれた唯一の血管は、親父の指先でした。

 

医者は重篤な親父の日赤病院の移送を勧めてきたので私も移送を希望しました。

 

サイレンをけたたましく鳴らしながら走る救急車に、あの熟練の看護婦も同行していました。 私はその車中、親父に父さん大丈夫かい?と聞いたら気丈にも、また「大丈夫だ」と答えていました。

大丈夫な分けなどないのです。 以前にも入院時の病棟で肺炎を患い、危ない時期があり、私も気構えていました。 その時の親父は私が、父さん大丈夫かい?と聞いたとき、こう言っていました。

 

「死にたい」。

 

軽度ではあったものの、認知症で何の趣味もなく生きがいを無くしていた親父の本音の言葉だったと思います。 その時は奇跡的に回復しました。 医者も奇跡的だと言っていました。

今思えば、最後の日、死にたいと言わず気丈にも「大丈夫だ」と真逆の言葉を何回も口にした親父は苦しいながらもしっかりとした意識の中で、死を覚悟していたのだと思います。

 

日赤病院救命救急病棟に緊急入院するための入院の手続き等や、過去の病歴等あれこれと書き、万が一の承諾書等を記入し、1F緊急処置室での病院お決まりのCTや血液検査後、担当Drとの話は勤医協病院Drの見解と同じでした。 CT断層写真は両肺ともに真っ白で、血液検査の炎症反応であるCRPの定性反応は+6で、定量反応に至っては健常人の100倍、白血球数は健常人9,000のところ、20,000以上もありました。病魔に対して負けるものかと戦っている人間の検査数値でした。

北見日赤病院は、道東医療の基幹病院として、建て替え完成していてこれから引っ越しをしなければならない時期にありました。 南病棟7Fに救命救急病棟があり、入院時の説明として、数週間後の引っ越時の説明が看護婦からなされました。

この南病棟6Fには、私も過去に三か月間入院したことがあり、増築された比較的新しい病棟で、後に道立北見病院が引っ越してくる病棟です。 その引っ越し先である新病棟は、隣接地である旧北見市役所の跡地にあります。

思い起こせば、親父は北見市役所を30年以上も勤め上げ、我々三人の息子達を育ててくれました。

 

 

1F緊急処置室から南病棟救命救急病棟7Fの5号室に移動した親父は、再び酸素マスクをつけられ、脈拍数と呼吸数が一目瞭然に判る機械につながれていました。

苦しさからか終始目を瞑っていたものの、意識ははっきりしていて、どうだい?父さんと聞くと、目を見開いて「大丈夫だ」とまた言うのがいじらしかったです。 看護婦さんが「処置をしますので一旦廊下に出て待っていてください」と言うので、私は一旦、廊下に出ました。 最初ドアが半分開いたままだったので、ベッドに横たわった親父を見ていました。

親父もじっと目を見開いて、廊下に出た私を見つめていました。

私にとって、親父のあの目を、生涯忘れることはできないと思います。

過去にも何回も親父を病院に入れたまま、私は「また来るね」と逃げながら、親父を病院に置き去りにしてきたのです。  それでも親父は何時も、あの小さくなった目をしながら私に、こういっていました。

 

「わるいな」と。

 

担当医は呼吸目標数値を90以上としていました。 私が初めに見た機械の呼吸数は92~94のところで行ったり来たりしていました。

私も疲れていたので、一旦引き上げることにして、親父に父さんまた来るねと言うと、目を見開いて、また「わるいな」と言っていました。 午後5時くらいだったでしょうか、再び勤医協病院に戻り、かみさんに事後処理的なことを任せて、昼間は昼食を取っていなかったので外食して家に戻り午後7時前には疲れたので、自宅の二階で早々と布団に入っていました。

すると、コトコトと二階にかみさんが上ってくるのが聞こえました。 病院から電話が入り今来てほしいとの連絡を受け、かみさんと二人で再び病院へと向かいました。

7F 5号室で親父は以前として、必死に戦っていました。 そのときの呼吸数は82~83まで低下していました。

看護婦は呼吸数が低下しているので身内を呼んでいたほうがいいと言うのです。

 

私の娘は、看護師を目指して旭川の看護大二年生で実習の合間に北見に帰ってきていました。 中学三年生の息子と娘を呼び、おふくろには電話を入れてタクシーで来てもらい、おふくろと私とかみさん、そして娘と息子の5人が集結しました。

看護婦が「鏡さん!お孫さんがきたよ!」と少し頬を叩いて声をかけると、今まで瞑っていた目を見開いて親父は孫である、私の娘と息子を見て「おお!」と言っていました。 そのとき苦しいながらも意識は依然としてはっきりしていたのです。

親父は点滴の針を自ら抜いたりするのが癖で、酸素マスクさえも邪魔で外そうとしていましたから、娘に手が動いたら注意するように言って、弟に二回目の電話をしようと病室を一旦抜け出し、再び病室に戻りました。 一旦抜け出した私は、弟に経過報告しようとしたのですが、その連絡を止めました。

呼吸数は徐々に低下していき、70台まで低下していました。 あの苦しそうで荒い呼吸は、嗚咽のような不規則な呼吸へと変わっていました。 口のまわりには白い吐き出した痰がまとわりついて、壮絶な苦しさを現していました。 やがて呼吸数は60台から30台へとなっていき、あの苦しそうな荒々しい呼吸は、虫の息へと変化していきながら息途絶えるまで、そう時間はかかりませんでした。

私は思わず親父の手を握りながら、胸に手をあてて、こう言いました。

 

父さん、これで楽になれたねと。

 

親父の手と腕は、何回も刺された点滴の針の跡で、無数のどす黒い内出血で滲んでいました。

涙が出て、出て止まりませんでした。

 

担当医は挿管等の処置により延命することは可能だが、高齢なので苦しい処置を施すのか自力の復帰を目指すのか、家族で相談してほしいとのことでした。 また、高齢患者について万が一、心拍の停止等の心肺蘇生術等については、肋骨が折れる等のことも多々あるので、心肺蘇生を行うかについても相談しておいてほしいとのことでした。

挿管とは口から気管に管を通すというとてもつらい処置であり、挿管したら回復して必要がなくなるということがない限り抜くことができない処置のことなのです。  私たち家族は後者の自立回復を望み、無理な心肺蘇生もしないことにしていました。

呼吸数が80以下になったとき、機械は緊急ランプを点滅させて、ナースステーションに警報を鳴らすのですが、看護婦は慣れているのか、一々病室にくることはありませんでした。 (後に思えば、看護婦さんは80近くに呼吸数が下がってきたのを見て、我々家族を呼んだのだと思います)

私は親父が息絶えるのを見届けるまでは、ナースコールを押さないつもりでいました。

ナースコールを押したのは、呼吸数と心拍数数を現す、あの仰々しい計測器が平行線になったことを確認してからでした。 その時の私の時計は10時20分を指していました。 Drが来て臨終を確認したのが40分でした。

私の娘と息子にとっても、まるで映画でみるような途絶の現場に立ち会ったことは、激烈なる経験と記憶となって心に残っていくことでしょう。

親不孝者の私にとって、私の家族とおふくろで親父を看取れたことは幸いでした。

やがて看護師を目指す娘も、身内の死は別として勤医協病院のあの看護婦のように、また日赤救急救命病棟の看護婦のように、人を救おうと必死に戦いながら、そしてまた人の死と日常茶飯事のように直面しながら、機械的な感情に慣れていくことだろうと思います。

戦時中、私の中学生の息子よりも若い時期に当時何も知らない幼少時期の親父が、あの神風特攻隊である予科練習生として選ばれ、茨城県の土浦航空隊までいきなながら、後に死を決意した手記が、今はもう廃刊された北見新聞に太平洋戦争開戦50周年に寄せた寄稿文として5連載されたのを、亡き父の身の回り品を整理していて発見しました。

 

故人を偲び、親父の現実の体験談「少年と太平洋戦争」を掲載させてもらいました。 因みに手記の中でのK少年とは亡き父であり、T村とは父の生まれた現在の常呂町です。

昭和の名優である菅原文太さんは、強面で「仁義なき戦い」に出演していたものの、国民を飢えさせないことと、日本は絶対に戦争してはならないと、強く言っていた平和主義者でした。

父の手記「少年と太平洋戦争」での締め括りにもこう書いてあります。

 

「私は思う、日本は戦争に負けて良かったと。もし勝っていたなら、このような平和な社会が訪れなかったものを、と」

 

逆に言えば私にとって、親父のこの手記がなければ、私も娘も息子も存在しなかった分けなのです。 戦争を知らない私にとって、高倉健さん菅原文太さんと同じく、親父は私にとっての昭和の名優なのです。

親父は7年程前に軽度の認知症が発覚していました。それでも昔のことは不思議によく覚えていました。 次項に載せた「少年と太平洋戦争」は、今は廃刊された北見新聞の太平洋戦争開戦50周年に寄せて、平成三年に親父の実体験の記憶を呼び起こしながら、自らワープロを打ち寄稿したノンフィクションの手記です。

人には、何れ死が訪れます。 そして、これから貴重な戦争体験者は、少なくなっていくことでしょう。 しかし、昭和の名優である、高倉健さんや菅原文太さんのように、幼少の頃の記憶ながらも、貴重な戦争体験者としての親父の体験も忘れ去られることのないように、少なくとも私の娘や息子の、その子供達に語り継いでほしいと思うのです。

 

ひい爺さんさんは、こんな人だったと。

 

 

 

 

 

                                           少年と太平洋戦争 ① 

この少年はKと言い、昭和五年の末期のT村に生まれた。 Kが10歳の時、母の言いつけで、兄のところへ衣替え類を届けることになり、初めて一人旅に出た。

兄はその頃、民間会社のトラック運転手として勤めていたが、戦雲急を告げる折から、車もろとも軍に徴用されて計根別飛行場の使役に奉仕していた。 K少年は慣れない汽車旅に不安と物珍しさの中、夕方には目的の計根別駅に安着、落ち合い場所の駅前食堂で兄の来るのを待った。間もなく、兄は大きなトラックで迎えに来てくれた。その夜、兄の宿舎で雑魚寝。 翌朝五時に起こされ、土間に並ぶ長テーブルで、半分以上は麦入りの朝食を頂いて、六時には兄のトラックに乗って仕事場へ向かった。 そこで初めて、朝鮮人の過酷な「たこ労働」を見た。それは、それはひどいものでした。その時の作業は多分、飛行機を敵機から隠蔽するため防空格納庫の土盛りを行っていたものと思われる。 「たこ」と言われる多くの人の身にまとっているものは、ぼろ布のようなもので、ところどころが破れてぶら下がり、その部分から肌身が見えるものでした。 帽子は編み笠のようなものをかぶり、股の七、八分は素肌を出し、足には草鞋(わらじ)をはいている。 その素肌は骨と皮、まるで地獄を見ているようでした。 ただでさえ倒れそうな格好の人が、二人一対となって「モッコ」なるものに土を一杯に入れられ天秤棒で担ぎ、狭い歩み板を、よろけながら土盛りの山に登って行く姿はとても痛々しく可哀そうで、まともに見れるものではなかった。 その往復の行列は切れ目なく続くのである。 その「たこ」労働を監視している者がいた。 その人の出で立ちは乗馬ズボンに半纏(はんてん)姿、頭にはねじり鉢巻き、履物は地下足袋、手には長い鞭を持ち、常に振り回している。 見るからに恐ろしい形相。 それはまぎれもなく日本人で、おそらく軍の下請けしている土方の棒頭だと思う。 とにかく鞭を振り回したくてうずうずしている。 一寸でも行列を乱したり、倒れようものなら咄嗟に鞭が飛んでくる。 それは悲惨なものでした。 中には倒れてそのまま立ち上がれない人もいたが、おそらくは何の手当も施されず死に追いやられたと思う。

夕方、仕事を終え「たこ部屋」に軟禁され、満足な食事も与えられずに過ごした夜はどんなであろうか。 そんな思いを胸に、少年は帰途に着いた。 それから年月を経て、K少年が十三歳(高等二年生)の夏のある朝、学校へ行くと数人の男子生徒が職員室に呼ばれた。 その者達は一応クラスで上位の成績の者ばかりであった。 その中にK少年も含まれていた。 突然のことに皆は戸惑っていたが、校長先生から話があるとのことでした。 皆は何を言われるのか不安な面持ちで動揺を隠せずに待っていた。 鎮痛な面持ちで出てきた校長先生は詫びるような口調で言った。

 

1991年(平成3年)12月12日(木曜日) 北見新聞掲載

 

 

                            少年と太平洋戦争 ② 

「君たちは選ばれて、お国のため、母校の名誉のため、一か月間の滑空訓練(グライダー)を受けてください」との内容であった。 しかし、誰にもそれを断る理由が見当たらず、承諾することになった。 そして八月の酷暑の中、少年達は希望を胸に全校生に見送られてT駅を後にした。 目的地は美幌海軍航空隊で、宿舎は美幌農林学校が充てられた。

指定の日時に集合したのは、網走支庁管内の小学校から推薦されてきた三百数十人の少年達であった。 早々、軍隊調の点呼、教官の紹介、個人面接と続き、K達の教官には岩崎二等兵曹の担当が決まった。 その後は身の回りの整理で、寝室は屋内運動場の床上に煎餅布団一枚で、全員が起床を共にする。 見回り品は寝具の足元にきちんと整理して置く、少しでも乱れていると訓練から帰ったときには、もう元のところには何も残らず散乱しているので、その後始末に泣いていた友もいた。 夕方五時になると、初めての夕食。 食事は各教室で炊事当番の生徒が世話をすることになるが、後始末は自分でしなければならない。 主食は見た目はとてもうまそうな大豆のごはんの一杯めし。 ところが、その後が大変な騒動で、食べたことのないものを食べたものだから、ほとんどの生徒が下痢にかかり、どの便所も行列ができた。 中には耐えきれず漏らす者まで出る有様だった。

即日夜六時から、いよいよ訓練開始。 まず、軍人勅論、戦陣訓、教育勅語を十日間の内に暗唱することであった。 その他にも軍人としての基礎知識をも修得しなければならいため毎晩九時まで授業が続けられた。 九時から十時までは、自由時間とはされていたが暗唱する課題があるため、とても気持ちが休まる暇などなかった。 十時には消灯、就寝となるが、当直教官の号令で寝具を延ばし、着替えして布団の上に正座、それぞれの故郷の方向に向かいて「お父さん、お母さんお休みなさい」と挨拶してから床に就くが、そのうち彼方、此方からすすり泣きが聞こえてくる。 これもいたいけない少年には無理からぬことだと思う。 朝は六時起床、床上げ点呼整列、それに要する時間三分である。

終わると直ちに駆け足三十分。終わって洗濯、食事。 便所に整列して用をたすのも日課であった。 八時からは、いよいよ野外訓練。 最初の一週間は海軍体操、剣道、銃剣術の連続だった。 剣道では教官との立会で叩きのめされ、その苦痛に泣く者もいたが、面帽の上からは出る涙も拭えず、ひれ伏す姿も。

 

1991年(平成3年)12月13日(金曜日) 北見新聞掲載

 

 

                少年と太平洋戦争 ③ 

一週間を過ぎるころから、いよいよグライダーの滑空訓練が始まる。 解体されて格納されている機体を各部署に別れて運ぶのである。 約二キロメートルほどの道程を規律を正して歩調を合わせながら滑走路へと向かう。 一切の無駄口は許されない。滑走路に着くと、機体を組み立てて、待望の訓練が始まる。 搭乗員は一名だから、交代で順番に搭乗する。 他の者は二手に別れてゴムの牽引ロープを引く者、両翼には機体を支える者、尾部には機体のストッパーをする者等の任務を担う。 これらの準備が整うと、牽引ロープが掛け声とともにV方向に引かれ延びて行く。 搭乗者は飛行目標を教官に報告し、ロープの張力が規定に達すると教官の笛の音で、ストッパーが外され発進する。しかし、向かい風が弱いと余り浮上せずに終わるが、運よく風に乗ると、本当に飛行士になった気分である。 中には何とか上昇しようと、教官の指導に背向いて操縦桿を一杯に引いたために、急上昇して失速し真っ逆さまに地上に落下、気を失った者もいた。飛行が終わると、その都度全員で機体を発進位置に戻して、繰り返し訓練するのである。この訓練は、降雨、強風の日以外は毎日行われた。 そんなある晴天の日、少年達が休息のため草原に腰をおろし、晴天を眺めている時、美幌航空隊の二機の赤トンボ(二枚羽)が、上空で戦闘訓練をしていた。 やがて我々も、あのように飛べるのだと思い、胸をふくらませているときでした。 二機が対向して接近してきた。「あっ、危ない」と一瞬声をあげたその瞬間、二機は正面衝突したのです。 その直後は何も見えなかったが、墜落したと思われる山頂付近には煙がたなびいていた。 これで少なくとも二人の尊い命と、二機の貴重な戦力が失われたのである。 航空隊からは、サイレンを鳴らしながら緊急車が走り去っていった。

訓練期間が終わりに近づくころ、航空隊の見学に行き、数少ない航空機の内「呑龍」なるものを見せていただいたが、余り良い印象は受けなかった。 一か月の(否、何年にも思えた)訓練を終え母校に帰った。 先生方には作られた歓迎。 この時、既に海軍予備軍のレッテルが貼られており、何もうれしくなかった。 むしろ学校での成績が下がったものでした。 その後、すぐに海軍予科練生の第一次試験が網走で行われ、合格通知とともに、第二次試験の通知も受けた。 第二次試験は茨城県の土浦航空隊で受けることになり、役場で九十円の旅費を支給され、片道三泊(車中泊)の旅だが途中に駅弁など売っている訳もなく、九食分の弁当を背負って初の長旅。 途中で見るもの、聞くもの全てが初めてのものはかり。

 

1991年(平成3年)12月14日(土曜日) 北見新聞掲載

 

 

                            少年と太平洋戦争 ④ 

連絡船は船底に閉じ込められ、敵艦からの攻撃防御のため船窓は全て閉じられていた。

折悪しく津軽海峡は大荒れに荒れ、食べたものは全部戻してしまう。 かと言って面倒など見てくれる余裕のある人など一人もいない。 そんな荒んだ時世だったのである。

出発四日目の朝、土浦駅に降りたった。 ところが駅前は人の波。 皆、受験のため訪れた少年達の群れであった。 降りた者から順次列に組み込まれ、徒歩で航空隊に向う。衛門で検問を受け、その指示により宿舎に入るのだ。 途中、霞ヶ浦湾にカッター練習の姿が見られた。 そこには必ず木刀を構える古参の顔が見られた。 宿舎についたが、ここも多くの人間の同居である。 しかも、日本全国から集まっているので通じない言葉もあるし、生活習慣も違う。 まるで烏合の衆。 何が起きても不思議ではないと思った。案の定片隅で喧嘩が始まったが、そこは軍隊である。 軍律を知る者が止めたのであろう直ぐに収まった。 今回は試験のためか、訓練を経験したK少年にはあまりの厳しさは感じられなっかったが、消灯後一部の者のひそひそ話が週番下士官の耳に入り、部屋全員の起床となったが、その張本人が名乗り出ないことから全員の責任罰となり、お陰で全員竹刀で尻を叩かれ終わった。 朝六時起床ラッパで起こされ、点呼、駆け足、朝食のパターンは隊員と同じ。 二日間に及ぶ学科、身体、体力の総合試験を無事終えて帰ったが、苦渋の思いしか残らない旅行だった。

年も明け昭和二十年、K少年十四歳の春、第二次試験の合格通知とともに「八月三十日土浦航空隊に入隊を命ずる」の令状があった。 三月には高等小学校を卒業するが、学校の計らいで入隊するまでT郵便局に勤めることとなった。 仕事は集配員。 毎日、二十キロメートル位の区域を徒歩で大きなカバンに郵便と手弁当を入れての配達。 その頃は郵便局も男手がなく、局長を除き全員女性であった。 夜は当直で泊まりの連続。しかも夜半になると必ずと言っていいほど別紙電報が入電された。 電報は速やかに届けなければならないのだが、それが決まって山奥のしかも片道十五キロもある所。自転車を駆って暗い山中の馬車道、途中に墓地もある。 穴に車輪を取られ転倒すると、それに驚いて鳥が飛び立つ。 本当に生きた心地がしなかった。 ひどいときには、帰局するとまた同じ所への電報が待っていることもあった。 でも度胸を養う良い試練だったと思う。 その報酬は一か月四十円。 それでも自分で汗して頂いたお金は本当にうれしかった。 六月に入ると日本も敗戦色が濃厚になってきた。

本土周辺には米軍の艦船が接近している模様だった。 T駅では、毎日のように戦場へと旅立つ人達への歓呼の声が響き、また反面、英霊が声なき帰還、迎える人の涙を誘っていた。

 

1991年(平成3年)12月16日(月曜日) 北見新聞掲載

 

 

                                      少年と太平洋戦争 ⑤

そんなある日の昼下がり、屋上のサイレンがけたたましく鳴りだし、敵機接近の警戒警報である。 T村に駐屯していた熊部隊の兵隊達は慌てるように各部署に就き、殺気だっていた。 間もなくサイレンは空襲警報に変わった。 「敵機襲来」である。 村の人が初めて体験する一瞬であった。 老人、婦女子は、日ごろの訓練を生かし防空壕へと退避。

K少年は心に弾むものを感じながら、一方で恐ろしさを秘めながら双眼鏡を片手に局裏の望楼に登った。 その日、T市街の上空には厚い雲が山の方から垂れこめていた。

海岸の方を見ると、岸から五百メートルほどの上空にぽっかりと穴があき、木漏れ日が海面をまばゆく照らしていた。 そこには二隻の漁船が悠々と漁をしていた。 それを見たK少年は一瞬ドッキとした。 敵機に発見されないことを祈ったが、その祈りは通じなかった。 雲の切れ間に敵機(グラマン)一機が姿を現した。 かなり低空を飛んでいたので漁船は気づいたようだ。 漁具は捨てたのであろう、それは早かった。 舳先に白波を立てて漁港を目指し、それこそ丸くなっての表現がぴったりの船姿。 一方グラマンは「獲物を見つけた」とばかり攻撃準備に移り、大きく左に旋回、オホーツク海上空を紋別方向に進路を取り再び百八十度転回、さらに低空飛行に移った。 直線に漁船のトモ(船尾)に迫った。 もう絶体絶命。発射される機銃掃射の連続音。 日本人をあざ笑うような悪魔の音が聞こえる、聞こえる。 また閃光が漁船中央部で走った。 K少年の双眼鏡には手に取るように見えた。 それでも漁船は白波を立てて一路港へ。 グラマンは網走方向に去った。 T村駐屯部隊の高射砲は不意打ちに遭い手が出なかった。 だがそれが幸いした。 もし発砲していたならT市街は彼らの良い攻撃目標になっていたと思う。 K少年は望楼から駆け降り、漁港へと走った。 撃たれた船は既に防波堤に横付けされていた。 聞くと船長の死であった。 甲板に日の丸で覆われた遺体が横たわり、血がところどころに滲んでいた。 関係者が鳴きわめいていた。 しかし、これが戦争なのだと、その現実を自分に言い聞かせる外に何ものもないのである。 K少年は撃たれた船を検証してみた。 実に正確にトモからヘサキまで、しかも船の中央を、約五十センチ間隔の弾痕が走っていた。 いかに余裕ある機銃掃射であるか伺えた。 船の中央で操舵していた船長の死からも、その正確さを判断できた。 船で火を噴いたのは機関室だったが難は免れた。

K少年も後半月で「七つ釦の予科練」への入隊。 生きて帰らぬ覚悟は出来ている。 それを知った母は、せめて自分の兄、姉、親戚に暇乞いの旅にと同行してくれた。 まだまだ親に甘えていたい年ごろである。 親戚の知人、親戚は沢山いた。 行く先々で慰められ、歓待された。 母は久しぶりに会える人ばかりで結構話に花を咲かせていたようだが、当の本人は疲れるだけで、浮かぬ境地で過ごした。

そんな中、八月十五日を旅先の知人宅で迎えた。 昼食を頂き、K少年は母の膝枕で寝そべっていた。 正午、ラジオは天皇陛下の勅語を流した。 遂に日本は無条件降伏し終戦を迎えたのである。

町の中は騒然。 この瞬間からK少年の運命は一変した。

今まで受けた厳しい訓練は何であったのであろうか。 後悔の余地など、ひとつも見当たらないものであった。

その後、父の製塩業を手伝い、食糧難にあえぎながら、日本の行先を見つめていた。 戦争ほど残酷なものは無いことを身をもって知らしめさせられた。

 

私は思う、日本は戦争に負けて良かったと。もし勝っていたら、このような平和な社会が訪れなかったものを、と。

 

 

 

1991年(平成3年)12月17日(火曜日)  北見新聞掲載